私の倫理は遅延評価/社会的無関心は果たして良くないのか?

私の倫理は遅延評価です.

実際に身に降り掛かってから行動を決めたいと思っています.なので一貫性は捨てています.

例えば,痴漢に安全ピンを刺すのが流行っています?が,自分は男なので安全ピンを持ち歩く予定を作る必要もないから,シラけた目で見てます.強いて言えば唐突に身に覚えなく安全ピンを刺される可能性があるかもしれませんが,それって普通の痴漢冤罪と変わらないのでまぁ起こりえないっか〜位のノリでいます.

大体にして社会のことを考えるのは僕自身のことを考えるのとは無縁ですし,それって時間の無駄っぽくないですか?思考実験として面白くてもそんなことに一喜一憂!してるのってテストの点数に右往左往する位バカバカしくないですか?等と...

ああ,強いて社会のことを考えるとしたら,社会が自分の事を鑑みなくなってしまうと自分が困るので困るなぁ...位のもので,いんたーねっつあるふぁさん達が「子供を産め.」だのなんだの言ってるの見ても,「うるせぇ,無責任種付けしてぇ.」としか思わないのです.

 

社会的無関心も甚だしいと思われるかもしれませんが,そのとおりです.僕は社会に関心がありません.ただただ僕が心地良い世界が広がって死ぬ間際はボケてクマのプーさん口調で「モレタ」っていう人生がいいです^q^

「社会に無関心な人間が増えるのは云々.」とお説教をくらいそうですが,そんな時僕は「大丈夫,君のような人間が居る限り社会は安泰だし,僕のようなアッホも君のような人間が居るからこそ,こうやってクマのプーさんができるんだよ.」と慈愛に満ちた表情で皮肉の一つもかましてやりたくなりますね.

 

さて,何が言いたいかというと「ヴィーガンガー」等と目を三角にしてる人々とクマのプーさんのどっちが幸せかってことですよ.絶対「ミツバチは蜜を作るために居て,蜜は食べるためにある.」とか真顔で言えるプーの方が幸せだし,僕は幸せになりたい.

そのためにはやっぱり社会の問題と自分の問題を切り離す必要があるわけで,ブラッドダイヤモンドを知りながら他人のダイヤモンドは美しく見えないわけですよ.

そういえば他者の問題を切り離すことの重要性はアドラー先生も言ってましたね.僕はアドラーというか,”アドラーかぶれのアホ”が嫌いだけど.

結論としては,一人の生命は地球よりも重いというよりも,俺の幸せは地球よりも重いので,何名かTwitterをミュートさせていただきました.

 

あああああ,快適なんじゃぁ.そして下書きなしにツラツラ書いたから文章下手くそなんじゃあ,ごめんね.ありがと.